内科 泌尿器科 東急東横線沿い 新丸子クリニック 川崎市中原区新丸子東1-764-12
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生い立ちから大学卒業まで
卒後研修と職歴
英国留学
留学後の職歴

院長あいさつ
(挨拶というより「自己紹介」です)
上野 学(うえのまなぶ) 山羊座 血液型ABです。

華々しい経歴は何もないので、私自身の生い立ちやこのクリニックの立ち上げるまでの紆余曲折を見ていただき、素性を知っていただくのも「わたし」を想像するには役に立つかも知れません。
一般に開設者(院長)の経歴というと「まるまる有名大学を優秀な成績で卒業」「医学博士の論文は云々」「なんとか学会の会員で評議員として活躍」「医師会ではなになに委員を歴任」など輝かしいものが登場してきますが、「わたし」にはそのような立派なものは何一つありません。貴方が私に輝かしい経歴があるのでは?と思ってこのページを閲覧するのは時間の無駄ですので悪しからず。

 

生い立ちから大学卒業まで

産婦人科医の父の勤務していた九州大学病院(福岡市)で生まれ、赤ん坊時代は福岡市西区西新で過ごした。 祖父の死を契機に長男である父が実家の産婦人科医院を継ぐために帰省し、私自身も保育園、小学校時代は田舎(行橋市)に暮らし、中学は北九州市にある福岡教育大学の附属中学でサッカー、陸上競技、アマチュア無線などに興じ、あまり勉学に勤しんだということはなかった。 高校は甲子園で有名(?)な小倉高校に入学し、高校2年まではラグビーに専念していた。 3年浪人計画で医学部入学を達成したラグビー部の先輩がいて、自分も3年計画だという意気込みで浪人生活に突入した。 当初3年浪人の計画であったが昭和大学医学部に入学が決まり2年で終了。 この大学は昔の「開業医養成所」であったが、現在は医学部、歯学部、薬学部さらにパラメディカル養成のための保健学科などの医療系大学としては老舗である。 懲りずにまたラグビー部に入部した。夏休みは白馬岳にある大学の診療所で登山客の救護にあたる医師OBの助手をするという部活(白馬診療部)で入山、またラグビーも合宿や練習に明け暮れた。 学生生活も6年間では飽きたらず7年かけてやっと卒業した。クラスの縁の下を支え、大学の底辺の高さ(!)を維持していた。「お前が受かればクラス全員国家試験合格だ」と学年主任教授に煽てられて最低限だが国家試験の勉強をした。 実際我々のクラスの国家試験合格率は高かった。

 

卒後研修と職歴

昭和大学を7年掛けて卒業したおかげで同期生が通常の倍できた(入学・卒業同期)。多くの仲間を得て卒業したことは有形無形に有意義であった。とくに研修医時代には(横浜市にある昭和大学藤が丘病院)仲間が多いことが本当に心強かった。内科、外科、小児科、耳鼻科、産婦人科、精神科、放射線科など色々な科目に散らばった仲間に学ぶことも多く、また精神的支柱となってくれた。その母校の附属病院での研修は外科系泌尿器科レジデント(住み込みの研修医)として泌尿器科を中心として外科や麻酔科を研修する多忙の日々を送った。研修終了後、泌尿器科のスタッフとして腎臓、膀胱、前立腺などの泌尿器臓器だけでなく外科臓器(大腸・直腸)さらには婦人科的臓器(子宮・卵巣)も含めて骨盤内臓器の全般を外科や婦人科の医師とともに総合的に診療する「骨盤外科医」を目指し研修した。

 

英国留学

大学病院でのスタッフとして働き、薄給のためアルバイト(他の病院での診察や当直)をこなし、学会発表のための資料を整理したり先輩の実験を手伝ったりという忙しい時期を過ごした。数年後、一大決心をし、自分の専門領域(骨盤外科)の視野を広げるために家族とともに英国留学をした。ロンドン大学の付属病院の泌尿器外科専門病院(聖ピーター病院)での臨床研修をスタートさせた。第一次湾岸戦争の時期であった。約1年半ロンドンに住み、市内の病院の手術室を動き回り、貪欲(?)に英国泌尿器外科医のテクニックを盗み症例数を増やしていた。幸いにも英国では期限付きの「医師免許」をもらうことができたため直接患者さんの診療・手術ができたことで自分の泌尿器外科の礎になった。英国の外科系の医療はわが国のそれに比べ「地に足が着いた」感じで新鮮であった。内視鏡手術では「目から鱗(うろこ)が落ちる」ことが多く、「今まで習ったことはなんだったの?」という状態であった。また尿路再建外科(小腸や大腸などの消化管を用い膀胱を造るなどの手術など)や性同一性障害の患者さんにたいする性転換手術や湾岸戦争中であったので戦争外科(戦争による外傷にたいする外科処置)など日本にいてもなかなか経験できないことを多く学んだ。また神経因性膀胱という内科的な病気については世界的に著名な神経内科医のもとで神経泌尿器科学を主に勉強した。英国は米国に比べ先端医療がさほど進んでないと思われているが、実際には泌尿器外科領域では内視鏡手術とその発展として腹腔鏡手術(今でこそ広まってきたが)当時は世界中でもまだまだという時期に既に実用化にたいする準備が完了していた。またロボット手術の試作やレーザー治療などの技術も大学病院で積極的に行われていた。そんな環境で実験室に潜り込んでいる留学とは違って臨床医(実際に患者さんを診る)として過ごしたことで視野を広げたのは紛れもない事実である。また専門医と家庭医(英国ではGPと呼ばれている)と連携から彼の地のGPの知識の深さや身のこなしがとても日本の開業医とは違っていたのに興味を持ったし、臨床医学にたいする姿勢を多く学んだ。自分の医者人生でもっとも有意義な時間を過ごさせてもらった。


留学後の職歴

1)欧米式の専門医としての開業(二束の草鞋医者)を目指して

留学して大学病院に戻ると、「自分の居場所」がない疎外感を感じ、教授になるのを目的として働いている者が多いところである大学を辞職し、大学時代のラグビー部の先輩の病院(横浜市 戸塚区)に就職した。病院に通うというより、「合宿所」に通うようなものあった。その後、欧米の医師のように「クリニック(オフィスと呼ぶ)」を持ち自分の患者さんは提携病院で自ら手術する専門医としての開業を決心し、平成7年2月より東京世田谷でクリニックを開設した。当初、午前中は病院勤務でクリニックは夕方4時からで8時半までという変則的な運営を約10年間してきた。横浜の戸塚と世田谷また自宅のある渋谷(当時)と車で一日中動き回った。東京のクリニックを閉鎖する約1年は通常の形で午前中も診療するスタイルに変更し、連携先を田園調布の病院に求めた。これも実は同じ先輩の経営する系列の病院で、また「我儘」を先輩は聞いてくれた。前のクリニックでは泌尿器科の患者さんが70%、外科・肛門科20%あとの10%は漢方治療を希望する患者さんであった。漢方治療は泌尿器科の疾患のみでなく内科、胃腸科、整形外科、皮膚科、婦人科など多岐にわたり治療してきた。当初の目的である欧米式の開業は連携先の田園調布中央病院の協力を全面的に得て順調に機能した。クリニックで手術が必要な患者さんは田園調布で自ら執刀し、退院後の経過はクリニックで診るという方法をとり、欧米型の専門医の診療所を確立した。

 

2)欧米式の専門医開業のから「昔ながらの街医者」へ

世田谷のクリニックでの「専門医の欧米型診療所」を経験し、開業医の本質である「自由な発想」がある程度実を結んだと考えている。2006年春に川崎市中原区に新居を構えたのを機に新たな診療所の構想を立てた。 「なんでもとりあえず相談できる街の便利医者(初期医療)であり、専門性も兼ね備えた診療所」である。 初期診療は所謂「よくある病気(コモンディジーズ)」内科のみならず外科的な病気も診療所レベルで対応できるものは診療するというスタンス。欧米では「GP」と呼ばれる「かかりつけ医」や街角にある「Walk-In Clinic」など予約なしで診てもらうクリニックがありますが、自分の感覚としてはこれが一番近いかも知れない。必要であれば専門医へ遅滞なく紹介しクライアント(患者さん)とって一番有利なことをする。世の中の医療現場では「患者中心の医療」を行うという極めて単純なことがなかなかできないのが現状であるが、それを実践するのが「街医者」の使命であると考える。難しい病気・珍しい病気の研究や診断など「病気中心の医学」をする大病院や大学病院とは対極にある。本来、全ての医療現場において「医師がその治療を考える際、自分の親や家族に選択するであろう最善の治療法を目の前の患者さんにもする」ということ。いつもこの感覚をなくすことなく「街医者」として生きていこうと思う。初期診療に必要なのは内科・外科・整形外科・耳鼻科・皮膚科・眼科・小児科・泌尿器科・精神科などすべての領域で、大病院や専門家にしかわからないことを除きなるべく診療所で対処する。「街医者」の仕事は地域に根付き、患者さんとその家族などを継続して見守るのが仕事であり、身体的、精神的健康を維持するための「よき相談者」でなければならないと考える。一昔前の「開業医」は皆そうであったに違いない。事実、自分自身が幼少のころ、内科開業医である母方の祖父に「昼の散歩」によく連れ出された。散歩とは事実上「昼の往診(往診の依頼がなくても)」で「ばあさん元気かい?」とか「じいさん、そろそろ薬ないんじゃないか?とりに来いよ」などを街の人々に声を掛けるための散歩であった。「街医者」の原体験をもとに、自分自身の開業医第2章を「昔の開業医のように」でやって行こうと考えている。